挫折を乗り越える強さとは -映画「THE FIRST SLAM DUNK」を観賞して-
はじめに
名作漫画「SLAM DUNK」を映画化した「THE FIRST SLAM DUNK」を先日観賞しました。
1回目は地元の映画館で、2回目はドルビーシネマという高画質且つ高音質で映画を楽しめるバージョンで観ました。+500円かかりますが、(画質の違いこそピンと来なかったものの)普通の映画館よりも確かに360°から立体的に音が聞こえて更に作品に没頭できたので、追加料金を払ってでも観る価値はあると思います。
このブログの題名に『感想』という文字を入れなかったのは、私が今書こうとしていることは、映画の感想というよりも、映画をきっかけにもっと個人的な事情への考察をするというものだからです。
映画「THE FIRST SLAM DUNK」についての素晴らしい感想と考察は、私が最も尊敬するイラストレーター・ブロガーであるぬまがさワタリさんのブログをご覧いただければと思います。(私が思ったことだいたい書いてある気がする)
では、今回のブログのテーマは何かと申しますと、
それはズバり『挫折』と『再生』です。
勿論、「THE FIRST SLAM DUNK」の主人公宮城リョータを語る上で最も重要なテーマであり、映画で一貫して描かれたテーマでもあるでしょう。
「SLAM DUNK」に登場するキャラクターたち程ではありませんが、私も過去10年間熱心に取り組んだスポーツがありました。
(マニアックな分野で身バレする可能性もあるため明言は避けますが、武道とだけお伝えします)
結局私はその武道を継続することを断念したのですが、それまでの経緯や断念した後のお話をしたいと思います.
※注意
以下の文章は映画のネタバレを含みます。ご了承ください。
揺らぐアイデンティティ
スポーツというものは、一体私たち人間とどんな関係のものなのでしょうか。
私たち人間の身体の機能向上や一時的な精神的リフレッシュを助けてくれるなどの他にも、試合に勝利することで自分に自信がついたり、他人から信頼と尊敬の眼差しを受けたりなどスポーツは様々な影響を私たちに与えてくれます。
もう少し詳しく説明すると、資本主義社会が発展した後のスポーツには『競争』の2文字がより付きまとうようになりました。スポーツに『競争』が掛け合わさると、試合に勝利し、己への自信と他人からの羨望を手にする者がいれば、同時に敗者となり自信と他人からの信頼を喪失する者も出てきます。
学力で社会的序列が決まってしまう、所謂「学歴社会」の中でもスポーツは特別です。
スポーツが他より並外れて得意であれば、人間として評価され、(例え学力がなくても)大学まで進学できてしまう世の中で、「スポーツが得意」ということは、それこそその人の人生設計に関わる大きな要素の一つです。
また、スポーツは『現実逃避』のための手段を私たちに与えてくれます。辛い現実から逃れてスポーツに没頭することで、少しでも現実を忘れていられる。それが自分にとって癒しの時間となったり、現実に立ち向かう契機となったりなど、人々の心の動きにも大きく影響します。
つまり、現代のスポーツは現代人にとって、自分のアイデンティティに深く関わるものとなっています。
競争が激化したスポーツにおいて、勝者は自分のアイデンティティを強固なものとし、敗者は自分のアイデンティティを喪失します。
スポーツに熱心に取り組んでいる者は、常に自身のアイデンティティを揺さぶられながら過ごしているのです。
スポーツに日々精進した若者が、何らかの理由(怪我や環境の変化など)でスポーツを続けることができなくなった結果『挫折』し、落ちぶれて違法行為に手を染めてしまう事例も多発しています。
(詳しくは下記の記事を参照してください)
スポーツをする若者によくある『挫折』を、映画の原作漫画「SLAM DUNK」では三井が体現していますね。怪我によって『挫折』を味わった三井は身を持ち崩し、分かりやすく不良になって桜木たちの前に現れます。結局彼はもう一度バスケットをすることを決意し復帰するわけですが、現実に『挫折』した若きスポーツマンが、気持ちを立て直し復帰する確率はどれくらいのものなのでしょうか。データがないので確率は分かりませんが、スポーツをすることによって得ていた栄光や充実感を失い、喪失感に打ちひしがれる若者が多くいることは確実でしょう。
もちろん、私もその中の一人でした。
私は幼い頃から競争心があまりなく、勝利への欲望に乏しい子どもだったためか、あまりスポーツにのめり込むことはありませんでした。
そんな中、中学生の頃に出会った恩師の演舞に魅せられて、私は武道を始めました。現代の武道は終戦後GHQに改革を指示されていたため、スポーツ化を推し進められ、試合による競争が激しくなったという歴史があるのですが、私の恩師はあまり勝負にこだわらない人でした。勝ち負けにこだわらずのびのび演舞に集中できる環境は私にとって楽園のような場所でした。
しかし楽園だったはずの場所で悲劇が私を襲いました。当時指導していたコーチから性被害を受けたのです。(この性被害のことは本題ではないため詳しくは書きませんが)、安心安全に武道に取り組める場所を突然奪われた私は、それでもその武道が好きだったので何年か続けましたが、結局はやめざる得ない状況に追い込まれました。
あまり試合に勝てるタイプではなかった私にとって継続していることが唯一の自慢であり心の拠り所だったため、私は大きなアイデンティティを失い、『挫折』を味わいました。
『挫折』を乗り越える強さとは
では、このブログに何度も登場した『挫折』とは一体何でしょうか。
私なりに意味を解釈すると、『挫折』とは、理想と現実がかけ離れ、自分や今の状況を受け入れられない時に感じるものだと思います。
原作「SLAM DUNK」で飄々とバスケットをするリョータは一見すると『挫折』とは縁遠い人間のように思えますが、映画「THE FIRST SLAM DUNK」では彼は何度も『挫折』を味わいます。
目標としていた兄を失い、家庭でもバスケットでも兄の穴を埋められないと感じるリョータ。その気持ちを表象するように、彼は兄と同じ背番号と、かつて兄が身につけていた赤いリストバンドを身につけ試合に出場します。兄の穴を埋められない苦しみや悔しさの中で、不良グループに殴られても、先輩に問題児扱いされても、彼はバスケットを続けます。おそらく、バスケットは彼に辛い現実を突きつけると同時に、辛い現実から逃れるための心の支えになったと思います。
そして、バスケットをする中で獲得した自信とその喪失の間で揺れながらも、リョータは正面から壁にぶつかり、もがいていきます。結果的に試合の後、リョータは『挫折』を乗り越え、兄の赤いリストバンドを母親に渡し、兄とは違う背番号で海外のバスケット界で活躍することになります。
一方私はというと、10年続けた武道を「生涯続けていく」ことが自分にとっての理想だったので、やめた後も使用する道具や胴着を中々捨てられずにいました。
「今まで費やした時間は何だったのだろうか」
「あんなにも熱中して楽しんでいたあの頃の気持ちはどこへ持っていけばいいのだろうか」
そんなことを考えながら日々を送っていました。
そして、武道をやめてから5年後、ようやく私は学生時代の恩師に「コーチに性被害を受けたことが原因で武道を続けられなくなったこと」を手紙で報告し、道具や胴着を処分することを決めました。
これが、私なりのけじめの付け方でした。
今となっては、
「例え費やした時間が無駄になっても、今の自分に不満はないから前に進もう」
と思えます。
(素晴らしい作品の人気キャラクターと自分を重ねるのはおこがましいですが)
リョータと私が各々落とし前をつけて前に進めたのは、おそらく今の自分と周りの現状を受け入れられたからだと私は思っています。
リョータは「兄の代わりにはなれない自分」のことを受け入れ、私は「もう武道を続けられない自分」のことを受け入れることで、挫折を乗り越えることができたのだと思います。
さらに一歩踏み込むと、『挫折』を乗り越えるために「自分を受け入れる」にはどうしたらいいでしょうか。
私は、現状を正しく認知し受け入れる『素直さ』、そして今の自分の気持ちを誤魔化さない『正直さ』が大事だと思います。
これこそ、私が考える「挫折を乗り越える強さ」です。
今すぐ自分を受け入れられなくても、時の流れが挫折による心の傷を癒してくれる場合もあるので、焦らずゆっくり自分の心と向き合うことが大切です。
私の言っていることは、ある意味「生存者バイアス」であるかもしれません。挫折によって打ちひしがれ、まだ立ち直ることができない方が世の中には大勢いらっしゃることも事実です。それは、その人が単に心が弱いということではなく、傷を癒す時間がまだ必要な段階なのだと思います。
「今はまだ心の傷を治療する段階なんだ」と認識することで、起き上がることができない自分を責めてしまう気持ちが少しでも減るかもしれません。
終わりに
最後に、私のお気に入りの楽曲を紹介したいと思います。
ハロー!プロジェクトのグループ、「アンジュルム」の「46億年LOVE」という楽曲があるのですが、天才作詞家児玉雨子さんが提供したこの曲にはこんなフレーズがあります。
『夢に見てた自分じゃなくても
全うに暮らしていく 今どき』
私がこのブログで約4000字を使って言いたかったことが、この短いフレーズに詰め込まれています。プロの作詞家さんの凄さに脱帽するばかりです。
(非常にファンキーで明るいリズミカルな素晴らしい楽曲なので是非聞いてみてください!)(宣伝)
スポーツに限らず、思い描いた状況や自分じゃないと戸惑う瞬間はこれからの人生において何度もあると私は思っています。その度に、私はこのブログで書いたことを思い出しなんとか乗り越えていければと思います。
きっと漫画の原作者であり、映画の監督をされた井上先生も、迷える若者へのエールとしてこの作品を制作されたと私は信じています。
ここまでブログをお読みいただきありがとうございました。また、どこかでお会いしましょう。
男らしさとジャニーズ(後編)
前編をお読みでない方は↓こちらをお読みください。
t.co
(ジャニーズ文化やジェンダー学について詳しい方は前編を読まなくてもある程度後編の内容は理解できると思います)
やっと本題まできました。
前編では書いてる筆者自身が落ち込むくらい絶望的な内容になってしまいましたが、
後編ではもう少し希望のある話をしたいと思います。
※注意
・このブログはできる限り正確なソースに基づいて書くように心がけていますが、明確なソースを提示できないものも多く、主にネット上の情報によって構成されています。ご容赦ください。
・ジャニヲタ歴4年の新参者であるため、特に10年以上前のジャニーズについての記述は正確性に欠けるものである場合があります。もし間違いがありましたら、コメントいただけると幸いです。
・筆者本人はジェンダー学の専門家でも、アイドルの専門家でもありません。
3.「男らしさ」と「ジャニーズ」
「男らしさ」とは一体何なのでしょうか?
様々な書籍やWeb記事を読んで、個人的には答えが出ました。
「男らしさ」とは、権力を勝ち獲りたいものが身につける言動や概念のことです。
権力に吸い寄せられ、権力を欲するものがまるで武装するかのように身につける振る舞いが「男らしさ」です。
これには性別関係ありません。
(「男らしさ」を身につけた女性のことを「名誉男性」と揶揄されることもありますね)
あなたの上司があなたに対してハラスメントをするのも、
あなたの先輩が仲間内で、特にマイノリティに対して乱暴な言動を繰り返すのも、
あなたの親兄弟があなたの話を遮り論破してくるのも、
全部支配欲や権力欲に踊らされ、「男らしさ」を求めた結果なのです。
一方で、「ジャニーズらしさ」とは一体何でしょうか?
これも個人的には答えが出ています。
「ジャニーズらしさ」とは、男らしさとは対極に位置するもの、つまり権力から最も遠い場所にいてくれるもののことを指します。
「ジャニーズ」と聞くとあなたは何を思い浮かべますか?
従来のジャニーズ像としては、少し背の低い男性、顔つきが柔和で可愛らしい男性を思い浮かべませんか?
そのあなたが想像した従来のジャニーズ像とは、生前のジャニー喜多川氏が求めたアイドル像でもありました。
「男らしさ」の基準はその時の社会や環境によって異なります。
当時のマッチョで力強い男性像から最も離れたアイドルをジャニー喜多川氏は求めました。
しかし、今のジャニーズタレントには身長が高い人やマッチョな人といった、従来の男らしさに当てはまる方も多くいらっしゃいます。
これは、男らしさの基準が時代の変化によって曖昧になってきたというのもありますが、事務所の権力者がジュリー氏や滝沢氏に代わったことにより、事務所が求めるアイドル像が変化してきたという側面もあるでしょう。
それでもジャニー喜多川氏や滝沢氏らが求めたアイドル像には共通点があります。
それは、「従順さ」です。
「ジャニーズらしさ」とは、権力に対する従順さであるとも言いかえることができるでしょう。
究極の男社会であるジャニーズ事務所にとって、その組織を維持するためには、
権力者による盤石な支配と、権力者に逆らわない従順な手下が必要です。
(ジャニーズ内で従順さが求められている証左になるかわかりませんが)
ジャにのチャンネルで公開された動画で、
「もし自分でYou Tubeチャンネルをやる場合どのジャニーズを入れたいか」というお題に対し、嵐の二宮和也氏はSnow Manの岩本照氏を指名しました。
その理由は「滝沢氏とのやりとりをみて忠誠心がすごいから」とおっしゃっていました。
1:50あたりから
(こういう嗅覚の鋭さが流石二宮氏と思いましたし、同時に恐怖も感じました。推しに近づいてほしくないですね。)
ジャニーズタレントが事務所内で出世するということは、
後輩たちを支配する力があり、
尚且目上の者には従順さをみせるといった二面性が絶対に必要です。
その二面性を持って出世したのが滝沢秀明氏というわけです。
(もちろん他のアイドル事務所や芸能事務所、一般的な企業にもこういった側面はありますが、
男所帯であるジャニーズ事務所は特にこの特性が強く出ています。)
また、これはあくまで私の憶測でしかないのですが、
ジャニーズタレントがジャニーズ事務所内で出世する以外の目的で従来のマッチョイズム的な「男らしさ」を身に付けたいと思う動機はあると思っています。
それは世間から(特に男性から)舐められないためです。
ジャニーズタレントは、
背が小さい・可愛らしい容姿というイメージが定着していること、
また女子どもがハマるアイドルという職業は価値が低いというホモソーシャル的な偏見から、
「自分たちは世間から舐められている」と思っている方が多いと私はみています。
その証拠に、ダイノジさんが自身のYouTubeチャンネルにて、
嵐の二宮氏がドキュメンタリーで、
「どうせ、ジャニーズだって馬鹿にしてんでしょ?」
「だから面白いんじゃないですか」
と語ったことを紹介されていました。
4:25あたりから
(そのドキュメンタリーが何なのか調べても分からなかったので、分かる方はコメントください)
あくまで二宮氏の見解ではありますが、
ジャニーズタレントの中に少なからず
「自分たちは舐められてる、馬鹿にされてる」
という意識が存在していると推測できます。
その「舐められたくない」という気持ちからどう行動するのかは人によるでしょう。
例えば滝沢氏の場合、その気持ちが腹筋太鼓*1の演出につながっていると私はみています。
ジャニーズ事務所内でいかに「男らしさ」が根深く関係しているのか、ご理解いただけましたでしょうか。
事務所から求められる「従順さ」と自身の「男らしさ」という価値観のギャップに苦しむジャニーズタレントは実は多いのではないかと私は推測しています。
4.「男らしさ」を脱いだ、その先に
人気少年漫画Dr.STONEの作中の台詞でこんなものがありました。
「男を褒める男は、ホモか策士(タヌキ)かどっちかだ」
皆さんはどう思いますか?
そもそも「褒める」行為とその人の性指向にはなんら関係がないですし、差別用語をわざわざ用いて表現していること自体悪意がありますよね。
また、「褒める」行為の裏に策士的な意図を感じるということは、その発想の背景に「男は他人を利用してでも競争に勝とうとするものだ」というジェンダー観があるのでしょう。
この台詞が普通に週刊少年ジャンプに載っていたことを考えると、
男性同士が褒め合ったり仲良くしたりする姿に嫌悪感を抱く人が一定数存在することが分かります。
しかし、男性同士が、他人を排除することなく(ホモソーシャル的な意味合いではなく)、連帯し互いを尊重することが、
「男らしさ」という価値観から脱却する唯一の手段だと私は思います。
そもそもなぜ「男らしさ」という価値観から脱却しなければならないのかといいますと、
それは、自分と他人を傷つけるからです。
私が最も尊敬するコラムニストのお一人、アルテイシアさんが書かれた記事を引用します。
「男はこれぐらいで傷つくな」「男は強くあるべき」と呪いをかけられて育つと、子どもは自分の傷つきや苦しみを認められなくなる。
感情を抑え込むようになり、感情を言葉にできなくなってしまう。自分で自分の感情がわからないと、他人の感情もわからない。自分の感情を言語化できないと、他人と理解共感しあい、深いつながりを築くことも難しい。
また自分の弱さを認められないと、他人に助けを求められなくなる。弱さを否定してウィークネスフォビア(弱さ嫌悪)に陥ると、他人に優しくできなくなる。
前編でお話したようなハラスメントの連鎖を断ち切るには、「男らしさ」という価値観から脱却し、互いを尊重し合える関係を築くこと以外道はないのです。
では、最近のジャニーズ(特に若手)は、「男らしさ」から脱却し、互いを尊重し合える関係を築けているのでしょうか。
個人的な見解にはなりますが、完全な「男らしさ」からの脱却とまでは言えなくても、いい流れはきていると思っています。
昨今のジャニーズタレントは、各媒体で互いのいいところを褒め合ったり、互いの功績を讃えたり、過度なイジり合いをやめたりといい方向に変化してきていると私の観測範囲では感じています。
それは、勿論時代の変化によって、各々のジェンダー観が変化してきているからということもありますが、
SNSの解禁によって、ジャニーズがより多くの人の目につくようになり、「ジャニヲタ」と呼ばれる一部のヲタクたちのだけのものではなくなってきたからということもあると思います。
特にYouTube解禁によって、自分たちの作品がファン以外の一般人(特に歌やダンスのプロ)の目に止まることで、自分たちのパフォーマンスは正当に評価されているという実感がもてるのかもしれません。
(個人的には、見た目の華やかさや愛嬌の良さなども立派なアイドルを構成する要素だとは思いますが)
外見の良さだけでなく、中身(パフォーマンス)をファン以外の人に評価されることで、「男らしさ」に頼らなくても自分に自信が持てることに繋がっているのではないでしょうか。
ここからは、私の希望的な予測になりますが、
アイドルがステレオタイプ的なジェンダー観を手放すことで、「男らしさ」の呪縛から開放される人も多く出てくるのではないかと考えています。
アイドルとは、その時代の象徴です。
アイドルの姿勢や言動に影響されるのは、アイドルオタクだけではないと思います。
(アイドルだけに完璧な人間像を求めるのも違うと思いますが)
男性アイドルが「男らしさ」から解き放たれることで救われる人はきっと私だけではないはずです。
アイドルをプロデュースしている方々には、この点をよく考えてほしいと思っています。
権力には責任が伴います。
ジャニーズ事務所内でも積極的に性教育を行ってほしいと願いますが、事務所のトップにそんな考えはおそらく1ミリもないことは前編でお話しましたので、
私達ファン側が「これはおかしいぞ」と思ったら声をあげるのも大切かなと思います。
「ファンは無力」という言説も世の中にはありますが、私はそんなことはないと思っていて、
特にSNS戦略を始めてから、運営側はファンの反応をかなり気にしていると思います。
疑問に思ったことは、すぐに問い合わせるということを私も心がけたいと思います。
ジャニーズ沼にハマってから約4年、正直
「こんな事務所に金を落としていていいのか…」
と葛藤し続けた日々でした。
それでもジャニヲタを続けていこうと思えたのは、ファンに対して真摯に向き合う推したちの姿に感銘を受けたからです。
ジャニーズ事務所は、内輪感が強く特殊で歪な組織だと思いますが、
推したちにはなんとか誰の人権を侵すことなく、心身共に健やかに過ごしてほしいと願うばかりです。
そのために、自分のできること(ブログやSNSでの発信)は続けていこうと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
皆さんの健やかな推しライフを心から祈っています。
【参考文献】
・「男子が10代のうちに考えておきたいこと」
田中俊之著 岩波ジュニア新書 2019/7/19初版
・「これからの男の子たちへ: 「男らしさ」から自由になるためのレッスン」
太田啓子著 大月書店 2020/8/24初版
・「現代思想2019年2月号 特集=「男性学」の現在――〈男〉というジェンダーのゆくえ」
青土社 2019/1/28初版
・「男らしさの呪縛」って? みんなで考える#国際男性デー
Yahoo!ニュース 2021/11/19掲載
・必要悪?「男らしさ」が猛威を振るう深いワケ
東洋経済オンライン 2018/09/10掲載
・「男の子はどう生きるか?」JJからボーイズへの遺言
幻冬舎プラス 2021/10/01掲載
男らしさとジャニーズ(前編)
お~~い!!フェミニスト兼アイドルヲタクの皆~~!!息してるか~~!!!
俺は自分の業(カルマ)に向き合いながら、この沼でなんとか生きてるぞ~~!!!!
アイドルとフェミニズムに触れ始めてから十数年、色んな沼に浸かり、揉まれ、時には歓喜し、時には苦い経験をしながら、
約4年前にたどり着いた沼が「ジャニーズ沼」でした。
長年アイドルヲタクをしていた人間として、フェミニストと名乗るくらいにはフェミニズムに感化されてる人間として、
本能的に『「ジャニーズ沼」は(色んな意味で)ヤバい』と危険信号を自身に向けて打ち鳴らしていました。
にも関わらず、堕ちてしまった「ジャニーズ沼」。
今回はフェミニズムとジャニーズ文化の間で葛藤し思考し続けた日々の集大成として、
「男らしさ」と「ジャニーズ」について書いていきたいと思います。(前編)
※注意
・このブログはできる限り正確なソースに基づいて書くように心がけていますが、明確なソースを提示できないものも多く、主にネット上の情報によって構成されています。ご容赦ください。
・ジャニヲタ歴4年の新参者であるため、特に10年以上前のジャニーズについての記述は正確性に欠けるものである場合があります。もし間違いがありましたら、コメントいただけると幸いです。
・筆者本人はジェンダー学の専門家でも、アイドルの専門家でもありません。
1.ジャニヲタになってから感じた違和感
ジャニーズ沼に頭まで浸かりながら、『おや?』『これマズくない??』と思ったことは何度もありました。
他界隈からきた人間なので、単純にジャニーズ文化に慣れてないというのもありますが、
それにしてもこれはダメだろと思った事件は枚挙に暇がないくらいありました。
時系列順ではありませんが、一部列挙していきたいと思います。
(事件の概要をご存知の方は読み飛ばしていただいて大丈夫です)
・舞台「少年たち」の桶ダンス
「桶ダンス」とは、*1舞台「少年たち」で行われる、全員が肌色のボクサーパンツのみの姿で両手に風呂桶を持って踊る演目で、あくまでネット上の情報ですが、2010年に復活した公演では行われていた、ジャニーズの伝統芸(笑)です。
この「桶ダンス」は、成人だけでなく未成年のアイドルも問答無用で出演します。
(私はこの「桶ダンス」が嫌すぎて、推したちの公演を観にいけませんでした)
・水着Jr.
こちらもジャニーズの伝統芸(笑)の一つです。
入所して間もないJr.が、なぜか水着姿になって、ステージ上を水を浴びながら練り歩くという珍行事です。
いつごろから行われていたのかははっきりしませが、2019年8月8日に行われたジャニーズJr.の公演「8.8祭」でもこの水着Jr.が登場しました。
(私の推したちの公演に水着Jr.が登場したら卒倒すると思います)
・ジャニーズJr.のフォトハンガー(通称エロハン)
フォトハンガー(通称エロハン)とは、2019年5月から2020年8月までアイランドストアで販売されていた、上半身裸のJr.たちの写真がプリントされたハンガーです。
「好きなJr.に好きな洋服を着せてあげる」といったコンセプトのグッズらしいのですが、この上半身裸のJr.たち(勿論未成年も含む)がプリントされているということが物議を醸しました。
(この上半身裸のフォトハンガー自体はこれが初めて起用された訳ではなく、2019年以前からデビュー組のグッズとして売られていたようです)
・舞台「滝沢歌舞伎」でのラウール号泣事件
2019年に行われた舞台「滝沢歌舞伎zero」の公演中、Snow Manのラウール氏が舞台袖で号泣しながら舞台に立っていたというエピソードが、Snow ManのYouTubeチャンネル内の動画にて語られました。
(9:36からエピソードがラウール氏の口から語られています)
同グループのメンバーの目黒蓮氏がラウール氏のフォローに回っていたようですが、
当時15歳の少年(ラウール氏)が公演中に号泣してしまうくらいの精神状態なのにも関わらず、公演を中止若しくはラウール氏の降板を何故選択しなかったのでしょうか。
総合演出を担当する滝沢秀明氏や周囲のスタッフの対応に問題があったと私はみています。
・フジテレビ系「ドッキリGP」での菊池風磨全裸ドッキリ事件
2020年1月に放送されたフジテレビ系「ドッキリGP」にて、Sexy Zoneの菊池風磨氏が
「シャワーを浴びた後、スースーするもの(おそらくハッカ油)を塗られた下着を履き、菊池氏が悶絶する」という内容のドッキリを仕掛けられました。
ドッキリを仕掛けられた後、菊池氏が放った「許せない!」というワードは、放送後Twitterでトレンド入りしました。
これに乗じてか、2020年8月に放送された同番組にて「プールで泳いでいた菊池氏の水着が溶ける」という内容のドッキリが仕掛けられました。
(同時にスースーする下着を履かせるドッキリも行われました)
どうみても菊池氏に対する性加害以外の何物でもないのですが、
この一連のドッキリによって、菊池氏の「許せない!」が名言化し、菊池氏の冠番組「菊池風磨の許せないTV」が誕生する、といったTV業界の地獄絵図が世の明るみにでた事件でした。
とにかく、これらの事件を列挙して私が言いたいのは、
ジャニーズ事務所は所属している青少年たち(特に未成年)が安心して芸能活動できる場所ではないということです。
アイドル事務所とは、生の人間を扱うため、最もポリコレ意識が高くなければならない業種の一つです。
にも関わらず、ジャニーズ事務所は、特に未成年への性的搾取について、コンプライアンスがガバガバのガバなんだということがお分かりいただけましたでしょうか。
(未成年への性的搾取については、ジャニーズ事務所だけでなく国内外のアイドル業界全体が抱える問題の1つであると思います)
ここまで読んだ方の中には、
「これが男らしさと何の関係があるんだ」
「なんだ、ただのフェミの小言か」
と思った方がいらっしゃるかもしれませんが、
権力によって人権を侵害されてきた彼らアイドルたちが、その後どう行動するのか、という点に次はフォーカスしていきたいと思います。
2.被害者が被害者を生む最悪の構図
2022年5月9日、何気なくTwitterのTLを見ていた私にとんでもないツイートが目に飛び込んできました。
それは、
"東京グローブ座で行われたジャニーズJr.の公演「JOHNNYS’ Experience」にて、SexyZoneの菊池風磨氏がプロデュースするミニコーナーが設けられた。
そのコーナー内で、「たたいてかぶってジャンケンポンをして、負けた人のズボンが降ろされ、降ろされた本人が『許せない!』と叫ぶ」といったやり取りが行われた。"
といった内容のツイートでした。
(私は公演自体を観ていませんが、Twitter上で多くの方々がその様子をレポされていたため、おそらく事実であると思います)
私は思わず頭を抱えました。
「ハラスメントの被害者が新たな被害者を生んでいる…最悪の構図だ…」と思いました。
恐らく、菊池風磨氏は自身がハラスメントの被害者であるという自覚もなく、自分がされたこととほぼ同じことを後輩にしてしまったのです。
こんなに悲しいことはありません。
では、権力によるハラスメントの被害者がなぜ被害を再生産してしまうのでしょうか。
それは、
①「相手より優位に立ちたい」という競争意識
②「イジり文化」という*2ホモソーシャル的価値観
がこの日本社会、特に男社会において根付いてしまっているからだと私は思います。
要は、強者によってマウントされた者が、より弱者に対して「イジり」という名のマウントをとることで自身をより優位な立場であるかのようにみせる。この現象が連鎖することで、ハラスメントを許容してしまう社会が出来上がるのです。
何も菊池風磨氏だけがこの連鎖に関わっているわけではありません。
たまたま表にでたものが先程言及した事件だっただけで、私達ファンが見えないところで様々なハラスメントの連鎖がジャニーズ事務所を含めた芸能界、TV業界に起きていると私はみています。
このハラスメントの連鎖の最たる象徴が滝沢秀明氏の存在です。
滝沢秀明氏こそ、これまで様々なハラスメントを受けた被害者であり、そして様々なハラスメントをしてしまった加害者でもあります。
(ソースがTV番組のため、このブログで表示できませんが、
2017年6月14日に放送された日本テレビ系「1周回って知らない話」や2018年12月28日に放送されたTBS系「金スマ」での滝沢氏の話を総合すると)
滝沢氏は15歳の時にTV番組の所謂「寝起きドッキリ」にて、下着姿で寝ている様子を晒されたり、
(しかもドッキリの仕掛け人は布団を剥いで滝沢氏の下着姿を晒している)
17歳の時に教師と生徒の恋愛を描いたドラマに出演し、上半身裸の状態で寝ているシーン(おそらく事後)を撮影されたり、
未成年にしてはいけない性的ハラスメントを受けていました。
一方で、デビュー後、後輩を育てる立場となった滝沢氏は2010年にジャニーズ公式サイト「滝CHANnel」をオープンしました。
このサイトは、当時タブー視されていたジャニーズJr.の動画や画像をネット上で公開することを主旨としたものでした。
(私がジャニヲタになった時には当サイトは閉鎖されていたため、実際の動画を観たことはありませんが、ネット上の情報を総合すると)
滝沢氏は当時のジャニーズJr.(6人時代のSnow Manなど)に対し、かなり苛烈なドッキリをしかけていたようです。
その内容は「コンサートのリハ中、滝沢氏がスタッフやジャニーズJr.の言動にキレて会場を出ていく」といったもので、
ドッキリとわかった瞬間ジャニーズJr.たちが膝から崩れ落ち、号泣していたそうです。
明らかに度が過ぎたドッキリですが、滝沢氏としてはジャニーズJr.を知ってもらうために善意で行ったものだそうで、私は「認知が歪み過ぎて恐怖だ…」と思いました。
前項目で列挙した事件の数々においても、滝沢氏が関わっているものが多く、彼の加害性は最早誰にも否定できないものとなりました。
そんな人物がジャニーズ事務所の副社長になってしまったのですから、ジャニーズ事務所内でのハラスメントの連鎖はとどまるところを知らないでしょう。最早自浄作用は効かず、悪化の一途を辿ると私は予測しています。
ここまで書くと流石に私もかなり薄暗い気持ちになりました。
なぜ私はこんな事務所に金を払い続けているんだろうと悲しくなりました。
しかし、人は希望があるからこそ、沼にハマりつづけてしまうのです。
後編では、「男らしさ」の正体、「男らしさ」と「ジャニーズ」、
そして、私が葛藤した先にみたものについてお話します。
ここまでお読みいただきありがとうございました。ぜひ後編も読んでいただけると幸いです。
*1:1969年の初演以来、上演のたびにアレンジを加えながら進化を遂げ、「少年たち」シリーズとして歴史をつないできた。Kis-My-Ft2、A.B.C-Z、ジャニーズWEST、SixTONES、Snow ManらがかつてジャニーズJr.時代に出演していたことから、この作品は若手の登竜門的存在となっている。 https://www.fujitv-view.jp/article/post-371397/より
*2:同性同士の社会的なつながり。 [補説]近年では、マチスモ(男性優位主義)を前提とした男性同士の連帯感について、否定的に言及されるときに使われることが多い。 ホモソーシャルとは - コトバンクより
うつ病患者の私がSHINeeと向き合うブログ
※この記事ではうつ病のこと、自殺のことについて触れています。危険を感じた方はブラウザを閉じてください。
※著者本人も現在うつ病治療中の身であり、医者でもないので、「これをすれば治る」といった内容を書いたものではありません。
アクセスありがとうございます。
まず、1/14に発表されたテミンの兵役に関するお知らせから触れます。
以前からうつ病・パニック障害を患っていたと知り
正直、驚きが半分、「やっぱりな…」と思う気持ちが半分でした。
日本向けのオンラインファンミーティングで、ジョンヒョンの映像を含めた過去のSHINeeのライブ映像が流れた後、テミンの様子が明らかに平常ではない状態になってしまったところをみると
「相当精神的にキテるのでは?」と心配していました。
テミンの一刻も早い回復を祈ります。
2017年12月18日、私たちの大好きなジョンヒョンが旅立ちました。
私はその年の11月からうつ病の治療を始めたばかりでした。
その日は調子が良かったため、私と両親と出掛けていました。
ふとスマホを操作したとき、ジョンヒョンが危篤状態であるという一報を知りました。
SHINeeの大ファンだった私と母は急いで家に帰り、ジョンヒョンの無事を祈っていました。
しかし、願いは届かず。
訃報のニュースを見たときは全身の力が抜け、彼が亡くなったという事実を受け入れられず、ただただスマホやTVで流れるニュースをぼーっと眺めていました。
翌日からジョンヒョンが亡くなった際の状況が克明に報道されるようになり、彼が自ら死を選んだのだと判明しました。
公式に発表されてはいないものの、ジョンヒョンはうつ病だったと憶測するネット記事が多く出回りました。
私自身、彼はうつ病で亡くなったのだと考えました。
私はジョンヒョンと自分を重ねました。
「ああ、私が何度も立った生死の淵から彼は飛び越えて向こう側に行ったんだな」と静かに思いました。
おそらくほぼ同時期にうつ病にかかり、旅立ったジョンヒョンと生き残った私。
彼がアイドルであることを忘れ自分と同一視してしまうには十分な状況でした。
当時の私は、ジョンヒョンが亡くなったことよりも、「なぜ死んだのだ」という疑問の声や事務所の責任を問う声を耳にしてしまうことに苦しめられました。
ジョンヒョンと自分を完全に同一視していたため、
「自分が死んだときも、こんな風に自分や家族含めた周りの人間が責められるのだろうか」と愕然とした記憶があります。
ジョンヒョンが自ら死を選んだのは、誰のせいでも彼自身のせいでもない。病気がそうさせたのだと思わないと自分が保てませんでした。
月日が流れ、SHINeeが4人で東京ドーム公演をすることが決定しました。
私は症状が悪化しているにも関わらず、体を無理矢理引きずりながらドームへ向かいました。
「無理して行くな!寝ろ!」と当時の私に言ってやりたいですね。
当時は、行くことが私の義務なのだ!と思ってました。
肝心の公演の内容は正直あまり覚えていません。
私は会場にいるファンが泣いて鼻をすすっている音を聞きながら、SHINeeの4人と1つのスポットライトが照らす空白のステージをただ見つめていました。
あの公演をやってよかったのか、私は公演を観に行ってよかったのか、今でもよく分かりません。
ただ、その頃ぐらいから
「ジョンヒョンと私は違う世界線にいるんだ」と悟り、彼と自分を同一視することをやめた気がします。
その後、私は幸運なことに理解のある家族の協力の下、心療内科に通院し、自宅療養をする日々を送っていました。
薬が合わなくて自室に引きこもったり、病院を変えたり、様々な発達検査したり、紆余曲折はありましたが少しずつ回復していた頃、私はふと考えてしまいました。
「私、SHINeeが存在してくれることを当たり前に思っていたな」と。
ジョンヒョンが亡くなる前のSHINeeは、日韓でアルバムを出しながら世界ツアーと日本全国ツアーを周り、各々ソロ活動も行うなど、超多忙を極めていました。
しかし、私は供給される完璧なエンタメをただ楽しく享受するばかりで、彼らの心身の心配をあまりしていませんでした。
毎年当たり前にアルバムが出て、ツアーが決まって、彼らのハイクオリティなパフォーマンスに酔いしれて、ただそれだけを考えていました。
兵役に行っても数年すれば全員でカムバしてくれるだろうと思っていました。
能天気で浅はかで身勝手なオタクでした。
アイドルをライトに楽しむことは全然悪いことではないと思います。
ただ、私の場合、SHINeeにハードなスケジュールとよりクオリティの高いパフォーマンスを当たり前のように求めていた自分は、彼らを追い詰める加害者側に無意識に加担していたのではないかと考えるようになりました。
私はかつてジョンヒョンと自分を同一視していたけど、全然立場が違っていたのではないかと。
なぜジョンヒョンが死んだのか本当のところは誰にも分かりません。
しかし、今でも、私の心の中には、加害に加担したのではという苦い思いが横たわっています。
そんなことないよ、と優しく声をかけてくれる人もいるかもしれません。
それでも、私の中で、この苦味は中々消えません。
そんな苦味を抱えながらも、私はアイドルを追うことをやめませんでした。
SHINeeのうち上のお兄さん3人が兵役に行き、末っ子のテミンが1人ソロ活動を本格化したときも活動を追ってましたし、コンサートにも行きました。
大人になり頼もしくなったテミンが、1人誰もたどり着いたことのない境地へ羽ばたく姿を目の当たりにして、テミンはきっと大丈夫と思っていました。一抹の不安を感じながらも。
時間を少し巻き戻しますが、ジョンヒョンが亡くなった直後の4人の公演で1つ引っかかったことがありました。
テミン1人だけ感情を抑えてステージに立っていたことです。
他のお兄さんたち3人は感情を表に出して、声を荒らげたり、涙目になりながらパフォーマンスをしていました。
一方で、テミンはジョンヒョンがいない穴を埋めながら
(実際ジョンヒョンのパートをテミンが歌うことが多かった)
完璧なパフォーマンスをしようとしていたように私は感じました。
プロとして、弱味はみせず、完璧なパフォーマンスをみせようという固い意志は、ソロ活動でも伝わってきました。
「テミンは1人でSHINeeを背負って偉い、凄い」と思いながら
「本当に大丈夫なのだろうか」とも思っていました。
そんなことを思いながら季節は過ぎ去り、
2022年1月14日、始めに触れたテミンの病気公表がありました。
「本当はずっと前から病気と闘っていたのではないか」
「テミンは病気のことを隠したかったのではないか」
色んなことを思いました。
しかし、何度も繰り返しているように、心の病の原因は分かりづらく、全く関係のない第三者が推し量れるものではありません。
私の場合、うつ病が自分の発達障害の二次症状だと分かったのは、発症してから数年経ってからでした。
まだテミン自身も心の病の原因がはっきりしていない可能性があります。
私とジョンヒョンは違うのと同じで、私とテミンも違います。
同じ病気とはいえ、自分の体験を彼らに重ねて憶測するしかありません。
ただ1つ言えることは、心は1度壊れると元に戻らないということです。
うつ病の症状を例えるなら、スマホのバッテリーが壊れるようなもの。
いくら充電しても満タンにならないし、自分の残りのバッテリー量がどれくらいか分かりづらくなります。何もしていないのにバッテリーばかり減っていくこともあります。
スマホなら代えのバッテリーを入れればいい話ですが、人間の体はそうはいきません。
1度壊れると代えがきかないのです。
私は、十数年間アイドルを応援しています。
能天気にアイドルを追っかけてる場合ではなかったと気づかされたときも、
自分の心が浮き沈みを繰り返し、コントロール出来ない状況になったときも、
私は、アイドルを応援することをやめませんでした。
アイドルを応援するときに味わった苦味。
あれから、私は結局変わることが出来たのか。
心の病を抱えた大好きな人を、これからどう見守っていけばいいのか。
自問自答しました。
ふと、SHINeeのライブの時の映像を思い出しました。
2022年1月7日から13日まで毎日1日限定で配信されていたライブ映像の数々。
色んな思い出が詰め込まれた映像には、SHINee5人の楽しそうな顔が映っていました。
安直な言い方にはなりますが、
幸せは確かにそこにあったし、自分もその幸せを共有していたんだと感じました。
その幸せは、いつか私の記憶から消えてしまうかもしれないけど、永遠なのだと思いました。
これからのSHINeeは正直どうなるか分かりません。
もう二度とSHINeeのパフォーマンスは観られないかもしれません。
それでも、SHINeeがくれた宝物を胸に抱きながら、彼らの健康と幸せを祈りたい。心からそう思います。
ジョンヒョンが亡くなって、SHINeeから離れた人、
4人のSHINeeが受け入れらない人、
4人になってから好きになった人、
ずっと応援し続けている人、
色んな人がいると思います。
SHINeeに触れたすべての人に、宝物があり続けますように、心から願っています。
1日で仕上げた散文をお読みいただきありがとうございました。
皆さんの健康と幸せを心からお祈りしています。